野坂昭如、せっちゃん(火垂るの墓)と三島由紀夫

作家、野坂昭如が旅立たれたようだ。

私は野坂昭如にこれといった思い入れがある訳ではない。正直なところ「変なおっさんが死んだ」くらいの感想しかないのだが、この機を逃すと彼について書くことなど一生ないだろうという思いから、『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』で野坂が描く「先輩作家」三島由紀夫について思ったことを書いてみた。

左:野坂昭如
右:渋谷某書店の又吉直樹コーナーにて平積みにされる野坂の処女作『エロ事師たち』。この作品を絶賛する三島由紀夫の後押しで野坂は作家の道に進む。

『赫奕たる逆光』で描かれる三島は、とにかく面倒見がよく、律儀だった。印象的だったのは、作家としては雲の上の大先輩であるにもかかわらず(年齢は5歳差でほぼ同世代)、後輩野坂に対して偉ぶった様子もなく、敬語を使い、「腰が低い」と形容しても良い程に物柔らかな人物であった。

ある時は野坂が「右翼団体が自宅に嫌がらせに来て困るんですが」と相談をもちかけると、三島は「こんな風に対処してはどうでしょうか」と、"左翼"団体が自宅に嫌がらせに来た時の対処法を具体的に伝授したりと、政治的見解の違いを超えた師弟関係が描かれていた。

両者には決定的な共通点がある。両者とも、終戦直後若くして妹を失っている。三島の野坂へのいたわりは、あたかも壮絶な同種の悲しみを背負った弟分に対するいたわりのような気もする。三島は野坂を通じて、あるいはその野坂の亡き妹(『火垂るの墓』で描かれる節子)を通じて、自分の力では助けられなかった妹(平岡美津子)の死に対して許しを請うていたのかもしれない。

左:野坂の代表作『火垂るの墓』主人公清太の妹、節子。野坂本人も妹の遺体を自らの手で火葬するなど、本作品は野坂の実体験を元にしていると言われている。
右:三島由紀夫

三島といえば、三島事件に代表されるような暴力的なイメージが先行するが、これは複雑な人間性の一側面でしかないと思う。少なくとも野坂の描く人間・三島由紀夫は、天国で節子に蛍を取ってあげているような人物に、私には映った。

三島「あれ? せっちゃん。向こうからだれか来たよ。」

節子「だれやろ? あ、にいちゃんやー! にいちゃん見て。この人、蛍いっぱいとってくれはってん!」

野坂(やや照れ臭そうに)「あぁ、どうも。あぁ、蛍こんなに。すいません。ご無沙汰しております。」

三島(満面の笑みで)「お元気でしたか?」

映画『アンナプルナ南壁』

先日、映画『アンナプルナ南壁 7400mの男たち』を観てきた。ヒマラヤ山脈の8,091m峰、アンナプルナの山頂間近にして高山病で遭難した登山家を救出するドキュメンタリーだ。

先々週は『クライマー パタゴニアの彼方へ』も観た。こちらは南米パタゴニア地域の尖塔セロトーレに若きフリークライミングチャンピオンが挑むドキュメンタリー。

(以降、ネタバレ的な内容のため、これらの映画を観ようと思っている人はご注意を。)

登山・クライミングという共通項はあるものの、テーマがかなり異なる両者を比較するのは問題かもしれないが、率直に言って『アンナプルナ〜』の方が数段良かった。(『クライマー』もクライミングの臨場感やパタゴニアの自然の描写が素晴らしく、全体的には良い映画だったが。)

トルストイだかドストエフスキーだか忘れたが、「幸福はワンパターンだが、不幸には幾つもの顔がある」というようなことを書いてたと思う。「成功」と「失敗」も同じようなものかもしれない。成功には一種のパターンや「型」が存在するが、失敗にはそのような決まりきった型はなく、その背後には無数の原因、無数の物語がある。

『アンナプルナ〜』における救出劇 を「失敗」にカテゴライズするのは心が痛むが、私は、自然の、その偉大さと、その自然の偉大さを前に、経験やスキル、愛や友情、現代の航空技術、医療技術をもってしてもなすすべもない人間のその様に、感動した。

余談だが、『クライマー』の観客は、MERRELLKEENなどのローカットのスポーツシューズの人が多かった。『アンナプルナ〜』では、ミドルカットのトレッキングシューズの人が目立った。この手の映画は、客層ならぬ「靴層」というものがあるのかもしれない。